【高齢者と運転免許】「まだクルマの運転ができる」ということはお年寄り(特
【高齢者と運転免許】「まだクルマの運転ができる」
ということはお年寄り(特に男)にとって
プライドに関わりますか?
認知症(ここではあえて痴呆と呼びます)の
お年寄りがとんでもない運転をして
大事故を起こす例が目立ってきました。
「そんなの、免許を取り上げればいい」
と言うのは簡単ですが、
「じーちゃんにクルマで迎えにきてもらう」
みたいに、頼りにされているという実感が、
大げさに言えば「人様のお役に立てる」
という心の支えになってるんじゃないか、
と考えるようになりました。
自分の親(祖父母)の痴呆が進んで
運転が怪しくなってきたとき、
皆さんはどのように ”引退” してもらいましたか?
運転をやめさせられた後、彼らは落ち込んで
ますます痴呆が進んだりしませんでしたか? 噛み砕いて言えば 言われてる事は理解できる。
要は ”言い方” ですよ。
人によっては 高齢である事を使い分ける兵もいるから 個別に見極めるしかない。
車から降ろしたなら フォローは必要。
運転を辞めても生活は変えられないんだからね。
高齢者に限らず 人間には出来る事と出来ない事があります。
経済的理由だったり 身体的理由だったり
人は 自分の置かれている環境の中で何らかの生きがいと楽しみを見つけていくものです。
ただ 困った事に歳を重ねると 理性で隠してきた本性が表に出てくるようになります。
まるで 子供のように思える時もあります。
へそを曲げられないように上手に振る舞ってください。
十人十色、誰かの経験談を真似て失敗しないように。 私も、どちらかと言うと『高齢者』の部類に入りますが、
先日も3日間、草津、善光寺と女房と友人を乗せて車で行ってきました。
運転は3日間、私一人でした。
と言うと何やら自慢話のように聞こえるでしょうが、
しかし、本当にそんな事自慢する気もないし、まして運転できる事が『プライド』なんて微塵にも頭に浮かびません。
どんな場合でも、どんな状況でも、「人様のお役に立てる」とかでもなく、
只ひたすら無心に淡々と日常生活と同じに運転するのみです。
高齢で運転が出来るという事に『プライド』等と言う言葉が使われるなんて考えてもいませんでした。
私の場合は、
もし、『プライド』と言う言葉を使うとしたら、それは、自分の運転に責任が持ってないと悟ったその時に、スッパリと免許返上する事です。
それがわたしのプライドです。
要するに、危ない運転をする方が『プライド』が許せない、
と、私は思っています。
まあ、人それぞれなんでしょうが、
もし、貴方の親御さんが、私のような考え方で運転しているとしたら、
ちょっと可哀想な気がします。 極論で申し訳ないが
プライドなど守る必要無いんじゃない?
他人ならともかく身内を「裸の王様」にしてどうする
そういうことはかえって「やんわりと」ではなく
「身内」なんだからはっきりと伝えないと
運転だけではなく一事が万事そうなるよ
と! 経験者の回答
実際父はまだ私の目から見ても不安無いが
叔父さんの時は従兄弟ときちんと現実を伝えて降りてもらった
だからと言って痴呆が進みもしなかったし
第一「人様のお役に立てる」の部分はそれまでの身内の接し方次第だしね
引導を渡すにも身内の使命だよ 痴呆が進まなくても
色々な感覚がずれてくるので物凄く危険です。
ブレーキを踏んだはずだったが
アクセルを踏んでしまったなどが例としてよくあります。
普通の人たちでは“なぜ”ということを簡単に起こしてしまいます。
人の役に立てることは良いことです。
そのために人を危めてしまっては意味がありません。
痴呆は本人と家族の問題ですが、
他人を巻き込んでしまうとそれだけでは済みません。
あるところで区切りをつけて
大きな事故を起こす前に免許を返上すべきと考えます。
あくまでも可能性の問題です。
70過ぎて交通刑務所に入るのも酷だと思います。 実際には・・・。
極最近、PCで拾ったニュース
ブレーキとアクセルの踏み間違いによる人身事故が無くならない。昨年は全国で6448件発生し、54人の死者が出ている。9月にも佐賀県伊万里市のスーパーに車が突っ込み、男性客1人が負傷した。事故を起こすのは筋力や判断力が落ちた高齢者が多いと思われがちだが、昨年は20代が最多だった。「不注意で誰にでも起こりうる事故」(佐賀県警捜査関係者)で油断は禁物だ。 公共交通機関が貧弱な地域を除き、
都市部では運転を辞めてもらうべき。
事故を起こしたときの責任は重大ですよ。
人様のお役に立てる、なんて言ってる場合じゃないです。
実際、ウィンカーは出さないし、
相手が譲ってくれるものと思い込み、狭路を突っ込んでくるし、
自転車の中学生との事故も目撃しています。
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