日産の塩路一郎はどんな人だったんですか?自動車業界では、有名ですか?
日産の塩路一郎はどんな人だったんですか?自動車業界では、有名ですか? 日産は昔から労働組合が強くて社内では労働争議ばかりやっていました。
日本企業は企業内労働組合で労使協調路線を取ることが多い中で大変先鋭的で戦っていた労働組合の一つでした。
そこの委員長で権力を一手に握って天皇と呼ばれていました。
日産は破綻しかけてルノーに救ってもらいましたが、その要因を作ったのは社長の石原氏と労組の会長の塩路氏と言われています。 日産の歴史の中で
大きな権力をもった人の1人です。
日産が経営危機になったのは
塩路一郎も関係してます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11231530171?__ysp=5pel55Sj44CA5rS%2B6Zal
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11257345626?__ysp=5pel55Sj44CA5rS%2B6Zal
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10206744515?__ysp=5pel55Sj44CA5rS%2B6Zal
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11308390876?__ysp=5pel55Sj44CA5Yq05YON57WE5ZCI
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14232829819?__ysp=5pel55Sj44CA5Yq05YON 塩路一郎は「自動車総連」を結成し、その会長になった人です。
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塩路 一郎(しおじ いちろう、
1927年〈昭和2年〉1月1日 - 2013年〈平成25年〉2月1日)は、
日本の労働運動家、日産自動車労働組合元役員。
1953年の日産争議における活動で著名となり、
のち自動車総連会長を務めた。
来歴・人物
東京市神田(現・東京都千代田区北東部)生まれ。
後に芝区(現・港区)に移転する。
父親は「小児牛乳」という牛乳会社を共同経営していた。
第一東京市立中学校(現・東京都立九段高等学校)を卒業後、
海軍機関科将校の養成機関である海軍機関学校に入校した。
少年時代から機械いじりを好み、ラジオの組み立てなどに
熱中していたので、将来はエンジニアとして、
海軍の技術将校か大企業の技術系社員になることを夢見ていた。
終戦後まもなく父親が死去し牛乳会社も解散、
幼い弟妹を養うために塩路は、引揚者輸送、ダンス教師、
ラジオ修理店店員など様々な職業に就き、
戦後の混乱期を生き抜いていた。
1949年、日本油脂に就職し、倉庫勤務の傍ら
明治大学法学部の夜間部に入学した。
また労働組合から勧誘され
この時、初めて労働組合運動というものを知った。
しかし塩路から見て、組合の幹部を占めていた共産党員は、
目的のために手段を選ばないように映り、
嫌悪の念を覚えるようになった。
やがて塩路一郎は、組合幹部から嫌われ、
「資本家のイヌ」のレッテルを貼られるようになり、
転職を考えるようになった。
ここで塩路一郎は
竪山利忠の指導を仰ぐ世界民主研究所の鍋山貞親の影響を受けて、
反共思想を前面に出すようになったという。
1953年、明治大学を卒業した塩路は日産自動車に入社した。
官学偏重の当時の日産にとって
この私大夜間部出身者の採用は異例であった。
なぜ塩路一郎が日産に入社できたのかについて
三鬼陽之助は、次のように語っている。
「当時の日産は
委員長 益田哲夫 の率いる総評系の
「全日本自動車産業労働組合」(全自)の
日産分会(全自日産)が
全国最強の労働組合と呼ばれるほどの勢力を有していた。
塩路一郎が日本油脂時代に
反組合として活動していた経歴が
当時、労組の対応に苦慮していた
日産の人事部長や日産の経営陣に
アピールになったからではないか」
塩路一郎は日産の人事部長に
「受験だけは、差別待遇をせず平等に取り扱って欲しい」
と、3日間に渡って日参して直訴し、
そして、日産の入社試験の受験にこぎつけたといわれている。
塩路一郎は日産に入社後、横浜工場の経理課に配属された。
その年の夏に
「全自日産」は賃上げを要求してストライキを起こした。
かねてから労働問題に苦慮していた日産は
この争議を労働問題根本的解決の機会とみなしていた。
そして、日産は徹底抗戦の構えを取り、
経済界も総力をあげ日産を支援した。
日産経営陣からの働きを受けて
宮家愈らは、学卒者職員を中心として
「第二組合」とも言える
「日産自動車労働組合」(日産労組)を結成し、
「全自日産」に加入している労働者たちを切り崩す作戦を開始した。
塩路一郎は「日産労組」の青年部長職につき
「全自日産」の労働者たちの切り崩しの先頭に立ち、
ほどなく反全自の急先鋒として
広く知られるようになった。
両組合の労働者勧誘合戦では
塩路一郎は、
幹部への懐柔工作や傷害事件として訴えを起こされるほどの
暴力・圧迫などを行い、強硬武闘派路線を展開した。
また会社側は銀行融資を受けてストライキに耐え、
一方でスト参加者たちへの給与支払い停止で対抗した。
4ヶ月間におよぶ闘争の結果、
給与不払いに疲弊した労働者たちは
続々と宮家・塩路派の「日産労組」に移籍し、
益田の率いる「全自日産」の勢力は
弱体化して少数派に追い込まれていった。
最終的に労働側は職場復帰に同意し、
争議終息後に
「全自日産」所属の労組幹部は日産を解雇された。
こうして、戦後日本労働界を揺るがせた「日産争議」は
会社側の完全勝利に終わった。
この勝利で頭角を現した塩路一郎は
その後、
ハーバード大学ビジネス・スクールへ留学した。
(1959年 - 1960年)
さらに、塩路一郎は、
1961年、日産労組組合長、
1962年には、自動車労連会長、
1964年には、同盟副会長
にそれぞれ就任した。
塩路一郎は
日産の川又克二社長と親密な関係を保ちながら、
企業の発展を旗印に、
係長・職長クラスの職制組合員を掌握し、
労使協調路線を定着させていった。
1972年、塩路一郎は「自動車総連」を結成し会長に就任した。
労働界では民間労組主導型の労働戦線統一の推進者となり、
1980年に「労働戦線統一推進会」を発足させた。
1982年の「全民労協」(全日本民間労働組合協議会)結成に際して
塩路一郎は副議長となった。
この頃の塩路一郎は日産自動車の社内では
「塩路天皇」の異名を取るほどの権勢をふるった。
専用車はプレジデント、品川区に7LDKの自宅、自家用ヨットを所有し、
「労組の指導者が銀座で飲み、ヨットで遊んで何が悪いか」
と発言するほど、
この時の塩路一郎は
まさに「労働貴族」の名に相応しい権勢振りであった。
また1969年に「国際労働機関理事」に当選するなど、
国際的な活躍も華々しいものがあった。
1975年の東京都知事選挙では、塩路一郎は
石原慎太郎の参謀四人衆の一人(他は浅利慶太、牛尾治朗、飯島清)
として選挙運動を指揮する。
1977年に日産の社長に就任した石原俊は、
世界市場の1割確保を目標とする経営方針「グローバル10」を策定し、
積極的に海外進出を進めていった。
その一環として、英国工場建設を計画したところ、
塩路一郎はこの計画に猛反対し、
「強行したら生産ラインを止める」
などと発言した。
これを機に、塩路一郎は
日産経営陣との関係が険悪化していった。
その後、塩路一郎の周辺で女性スキャンダルが発覚し、
長年、塩路体制下で不満を鬱積させていた職制組合員たちから
反発を受けて、
1986年2月、塩路一郎は一切の役職を辞任し、労働組合から引退した。
1987年には定年退職したが、その時の塩路一郎は
かつての影響力は失われていた。
2012年、塩路一郎は回想録
『日産自動車の盛衰―自動車労連会長の証言』(緑風出版)を発表し、
第一組合などを厳しく批判した。
2013年2月1日、食道がんにより死去した。86歳没。
評価
自動車評論家の徳大寺有恒は塩路一郎を
「日産の足を引っ張れるだけ引っ張った」
と批判している。
また元自動車ディーラー社長の上杉治郎の著書にも詳しい。
左派からは右派御用組合活動家の典型として極めて評価が低く
(御用組合を黄色組合ともいうところから)
「イエローヒトラー」と呼ぶ者すらいた。
その一方、経営者側からは、反共・労使協調路線の功労者と
評価される一方、
労組に権力を持たせた悪しき実例としてみなされることが多い。
日産の広報室課長の経験がある経営コンサルタントの
川勝宣昭(元日本電産取締役)は、塩路一郎について
「生産現場の人事権、管理権を握り、
日産の経営を壟断。生産性の低下を招き、
コスト競争力でトヨタに大きく水をあけられるに至った元凶」
と批判している。
また、豪州日産の元社長である古川幸は、川勝に対して
塩路一郎についてこのように打ち明けている。
『塩路に対して
「あれは大した人物ではありませんよ」
と新聞記者に漏らしたところ、
豪州日産社長の職を解かれ、
「人事部付」となり、
人事部の部屋に置かれた机1つを与えられ、
仕事は一切与えられない場所に押し込められた。
また、部内では「ひと言も口を利くな」と指示が出され、
話しかける者は皆無という状況に置かれ、
精神的に不安定となった。』
その一方で、日産のその後の経営危機の原因となった、
欧州進出を目指した「グローバル10」を強行する
日産社長の石原俊に対して
塩路一郎が批判したことは、的を射ていたと評価されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%B7%AF%E4%B8%80%E9%83%8E
日産のドンを敵に回した男の"地獄の日々"
部下もなく、仕事もなく、座敷牢へ
PRESIDENT BOOKS
日産の「絶対的権力者」がその座を追われたのは
カルロス・ゴーン氏が初めてではない。
かつて自動車労連の会長として日産の経営を牛耳った
塩路一郎氏という人物がいた。
塩路氏のもとで、名もなき多くのミドルの人生が犠牲になった。
元豪州日産社長の古川幸氏もその1人だ。
古川氏が過ごした“地獄の日々”を
『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)から
紹介する――。
https://president.jp/articles/-/27101?page=1
ページ:
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